2012年4月28日土曜日

快楽主義の哲学 澁澤龍彦 著 - うちこのヨガ日記


[本の紹介]快楽主義の哲学 澁澤龍彦 著

大学生の頃に手にとって、なんとなくそのとき読むことをやめておいた澁澤龍彦氏。

でもやっぱりずっとどこかで気になっていたようで、古本屋で手にして、読むことになった。あの頃に読んでいたらどんな大人になっていただろうと思ったりする。

そう、そのときは「いや」で読まなかったのではなく

<196ページ 誘惑を恐れないこと より>

 若いうちは、どんどん片っぱしからいろんな本を読んだほうがよい。悪書も良書もありません。問題は、本を読む人の側にあります。いろんな精神的誘惑を受けてこそ、その人の内面世界は豊富になり、内面世界の地平線が広がっていくのです。

(中略)

ある種の本を毛ぎらいして読まないのは、けちな偽善者、臆病者です。もしかしたら、そういう危険な書物のなかに、だいじな宝が発見されるかもしれないのです。内心では読みたくてたまらないのに、なにか自分が影響されはしないかと、こわいような気がするのでしょう。

 いったい、そんなに自分というものをだいじにする必要があるのかどうか。これは、本の話ばかりではありません。恋愛でもなんでも同じことです。

もともと持っているものを刺激されることがわかっていたから、避けていた。

著者さんは、そんなことはお見通し。


<40ページ 博愛主義は、うその思想である より>

 たとえば、十個のリンゴを十人で分けて、快楽を得たとします。ところが、もしこれを百人に分けた場合、リンゴの味は変わらないかもしれないが、もう快楽はありません。

いまはもう博愛主義をさらにポジティブ・コーティングして「シェアしましょう詐欺」みたいなことになってるんですよ、センセ。といいながらお酌したい。


<47ページ 健全な精神こそ、不健全である より>


津波が南アメリカで打つことができる場所

 個人的な快楽がすべて軽蔑すべきものであり、不健全なものだ、と頭からきめこんでいる人たちがいます。「きのうは映画、きょうはボーリング。」などというと、不愉快そうな顔をし、「昨夜はばあさんのお通夜に行ってきました。」などというと、いかにも満足そうな顔をする人たちがいます。

 明治の宗教家に内村鑑三という名高い人がいますが、この人は、三味線の音を聴いただけで、悪魔の声を聴いたと感じる人で、やれ映画を見ちゃいかん、やれ何をしちゃいかん、ゲーテは不道徳な小説家だ、などといっています。むかしは、そういう極端な「道徳家」もいたのです。

このくだりのあと、求道的ヒューマニズムをバッサリいく。倉田百三、西田幾多郎、阿部次郎まとめてバッサリ。全般的に、切り込みまでの配球ユーモア・センスがすごい一冊です。


<120ページ 性感帯の拡大 より>

肉体の階級制度は、お上品ぶった人たちによって、がっちり守られ、エロチシズムは、性器だけの狭い範囲に限定され、肉体のほかの大部分は、もっぱら労働のために使われる道具でしかなかったのです。

 これが、性器の優位性にがんじがらめにしばられた、わたしたちの現在までのエロチシズムの歴史です。性器だけが、まるで専制君主のように特権的な地位を占め、あらゆる快楽を独占している現状です。

いま草食だとかいわれる状況のほうが、範囲が広がってていい気がする。和服美人やボディコンだけじゃない幅広さが。


<177ページ ユーモアは快楽の源泉 ─ 奇人ジャリの人生 より>

 心理的な分析によると、ユーモアは、外界からの苦悩を押しつけられることを拒否し、自我を優越的な地位に引きあげて、自分のまわりに厚い防御の壁を築き、堂々と「快楽原則」を貫きとおすことです。こういう心理的な操作を自由になしうる人が、ユーモリストと呼ばれます。ユーモリストは、人生の失敗にくじけない、強い柔軟な精神をもった快楽主義者です。

ウケるスベるに関係なく、ね。


<216ページ レジャーの幻想に目をくらまされないこと より>

わたしは、つぎのように断言してもよいと思う。


モルガニは何ですか?

 それは、まず第一に、労働とか生産とか勤勉とかを尊重する原理から、遊びとか消費とか瞑想とかを尊重する原理へと、今後、わたしたちの頭を切り替える必要があるということ。

 第二には、与えられるレジャーのちっぽけなイメージに、目をくらまされてはならないということ。

 人間の本質的機能を「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)として示したのは、有名なオランダの歴史家ホイジンガですが、── 人間が労働の鉄鎖を引きちぎって、子どもや動物と同じように、いつでも遊んでいるような存在にならなければ、真の意味で、社会や文明が進歩したということにはならないのだ、とわたしは考えるのです。このことは、何度でもくり返して主張しておきたい。

本当に必要なことが、どれだけあるのか。

と、ここまではいつもどおりの紹介。

この本にはもうひとつ、おもしろい読みどころがあった。古代ギリシアの「口伝マン」たちについての言及。

<52ページ 「おのれ自身を知れ。」とは愚の骨頂 より>

 アンドレ・ジイドが、うまいことをいっています。「おのれ自身を知れ。この金言は、有害であるとともに醜悪でもある。自分自身をよく知ろうと苦心する毛虫は、いつになっても蝶にはならないはずだ。」と。

 まったく、そのとおりです。自分自身を知ることにこだわって、謙虚になりすぎ、いつまでたってもサナギから成虫に発達しない人がいます。

(中略)

「おのれ自身を知れ。」という金言は、人間を萎縮させ、中途半端な自己満足を与えるばかりで、未来への発展のモメント(契機)がない。未知の可能性や、新しい快楽の海に飛び込んでいこうという気持ちを、くじけさせてしまいます。

以下に続きを引用しますが、おもしろいのはここからです。


 のみならず、このサナギ哲学は、無知や謙遜をてらうという、妙ないやらしさにもつうじます。これは傲慢の裏返された形です。ソクラテスなどという人は、煮ても焼いても食えないような、よほどのタヌキおやじだったにちがいない。


要素の銀に関するいくつかの興味深い事実は何ですか

 自分がだれにも負けない弁論術の大家であることを、ちゃんと承知しているくせに、おおいに宣伝し、相手をおだてたり、喜ばせたり、油断させたりしながら、自分のまわりにおおぜいの若い弟子を集め、美少年をはべらせて、まことにかって気ままな遊惰な生活を送っていたらしいのです。なんという悪賢い、抜けめのない男でしょう。

 要するにソクラテスというタヌキおやじは、自分では信じてもいない、快楽主義とは正反対の教えをぬけぬけと他人に与えておきながら、自分だけは、ひそかに自分自身の快楽主義、個人的な快楽主義を実践していたわけです。このはげ頭の聖人は、じつは美少年が大好きだったのです。種を明かしてみれば、それだけのことです。

この、見てきたような調子がたまりません。インドの聖者やグルのアレな伝説を読んできたうちこは「やっぱりね!」と思って楽しくなってしまうのです。教科書のなかの絵の世界は、そういわれたらそうにしか見えない。いや前からそんな気がしてた。それはさておき、おもしろい。

次似に介するのは、ギリシア哲学のとても勉強になる、わかりやすい説明。

<57ページ 動物的に生きること より>

 簡単にいってしまえば、ストア哲学にとって、「自然と一致する。」とは、外界に対する一種の緊張を意味し、エピクロス哲学にとっては、一種の緊張緩和(リラックス)を意味します。

 たとえば、道を歩いていて嵐にぶつかったと仮定する。その場合、ストア派の人間なら、できるだけ苦痛の感情から身を離し、「雨や風は、おれとは無関係だ。おれは大地に足を踏みしめて、がっちり立っているのだから、いくら雨が降っても風が吹いても平気だぞ。」と考えます。つまり、これが緊張です。

 いっぽう、エピクロス派の人間は、襲いかかってくる外界の攻撃に敢然と耐えようなどとは、最初から考えません。彼はたぶん、こう考えるでしょう。「嵐がくるなら、まあ、それもよかろう。」と。そして、「やれやれ、ずぶ濡れになっちまった。だが、まあいいや、ほうっておけば、そのうち着物もかわくだろうさ。」と。つまり、これが緊張緩和です。

(中略)


 ストア派の人間のように、つねに雄々しく目ざめ、不動の岩のように、がっちりと、勇を鼓して万事に耐えるという生き方も、むろん、それなりにりっぱな生き方にはちがいありませんが、このエピクロス派の緊張緩和の方法も、それに劣らずりっぱな生き方だということを知らねばなりません。動物的ということは、けっして頭から軽蔑したものではないのです。

 雨や風のような自然現象に対する場合ばかりでなく、怒りとか、悲しみとか、嫉妬とかのような人間的感情に対しても、修練をつんだエピキュリアン(快楽主義者)は、自由に自分の態度や気分をリラックスすることができます。

「四大学派というのがあった」くらいのことを教科書で見たのはなんとなく覚えてるけど、こういう学びのおもしろさは大人にならないと無理かもな。寺や道場で聞くような話だもの。緊張と弛緩、強さとしなやかさは、裏表してひとつ。

おもしろくって、ためになって、笑える。

武勇伝を語ってしまいがちな40代、50代、60代になるまえに、いま読んでおきたい本でしょう。

うちこは「盗ぅっすんだブァッイクで走っしり出すぅ〜」と歌われても、「バイク盗んじゃダメだよね。でもその日本語がそのメロディにのって、少しかすれてる叫び具合が気持ちいいというのはわかります。歌詞に共感はしませんが」という微妙な世代なのですが、この微妙な感じを忘れずにいたほうがよい気がしました。

澁澤 龍彦
文藝春秋
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