■■■ 日韓古代交流史――基礎知識[乙:朝鮮人は来なかった]――(解法者)■■■
◆◆◆ 基礎知識(30) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月14日(土)13時37分19秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(1)<
我々は、『先史時代、朝鮮半島から先端技術や文化を携えて多くの人々が渡来した』(「縄文人と渡来人の遭遇−日本人の誕生へ−」小林青樹[『NHKスペシャル 日本人はるかな旅{以下『はるかな旅』という}第5巻 そして"日本人"が生まれた』]日本放送出版協会 2002年1月30日 冒頭)、『今から2300年前ころ、朝鮮半島や中国から人々が渡来し、水田耕作の技術を日本にもたらした。つまり弥生時代になって、渡来人がやってきて、水田耕作が行われるようになった』(『NHK 日本人はるかな旅〔以下『NHKはるかな旅』という〕4.イネ、知られざる1万年の旅』あかね書房 2003年4月5日 6頁)、『弥生時代のはじめに、つぎつぎと日� ��列島にやってきた渡来人、かれらはすすんだ水田稲作の技術を手に、日本列島の各地にひろがり、巨大な集落をきずいていきます』(『NHKはるかな旅』5.そして"日本人"が生まれた 3頁)、と習ってこなかったか?
また、「日本の縄文時代は、(中略)人々は狩猟や漁猟に明け暮れていた」と教えられてこなかったか? その代表的なものに『日本列島は、紀元前300年ぐらいに稲を持ったボ−ドピ−プルがやって来るまで、闇の中にいました。この闇の時代のことを"縄文時代"といいます。旧石器時代に続く時代で、この狩猟採取生活が八千年も続いたというというのは、驚くべきことです。文明は交流によって生まれます。他の文明から影響を受けずにいると、人類はいつまでも進歩しないということを雄弁に物 語ってます』(『文学から見た日本歴史』司馬遼太郎〔ケンブリッジ大学・英国日本研究会主催のシンポジウムでの特別後援−1987年〕[『日本人ル−ツの謎を解く−縄文人は日本人と韓国人の祖先だった−』長浜浩明 展転社 2010 年5月27日 23頁])。『日本人は東アジアの最後進民族です。(中略)中国人は偉大な民族で起源0年頃、既に代数の初歩を解いていたのですが、当時の日本人ときたら、やっと水稲栽培の技術が全国に広がったらしいという段階、まだ自らの文字も持たず、統一国家も形成しておらず、どうやら石器時代から脱却したらしい状態です。(中略)中国人は紀元前600年頃に(水稲栽培)を発見してました。中国人は当時の超先進民族です(『日本人とは何か 上巻』山本七平 PHP研究所 1989年9月4日 29頁)。
ところが、最近の研究では、【朝鮮人などの渡来人など日本列島に来たために日本人が豊かな生活を送れるようになったのではなく、元々いた縄文人がとても豊かな生活を送っており、そもそも朝鮮人などの渡来� �などが集団として日本列島に来たことがなかった】というのが、定説になりつつある。
◆◆◆ 基礎知識(31) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月15日(日)16時02分21秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(2)<
まず、稲作の話を少ししたいと思う。最近の研究で、稲作が始まったのは中国の長江下流域で約7000年前(紀元前5000年頃)ということがわかった。最初は「焼畑」であった。そして、6000年前(紀元前4000年頃)には日本にその技術が伝わり、「熱帯ジャポニカ」という品種が栽培されていた。水稲栽培が始まったのは中国の長江中下流域で約6000年前(紀元前4000年頃)。日本の北部九州では3000年前(紀元前1000年頃)には灌漑施設を伴った水稲栽培が行われていたのである。朝鮮で水田稲作が始まったのは紀元前1000年前頃からであるから、日本の方が朝鮮より遥かに早く稲作が始められていたのである。つまり、朝 鮮半島から稲作が日本に伝わったのではなく、日本から朝鮮半島に伝えられたのである(末尾の拙稿参照)このことはまた後で説明したい。日本における稲作は、焼畑にしても水稲にしても中国より1000年遅れて開始されたのであって、この稲作を担っていたのが、縄文人である。「縄文人はおしゃれで、髪を結い上げ、アクセサリ−を着け、赤や黒で彩られた衣服を着ていた。技術レベルは高く、漆器、土器、織物まで作っていた。植物栽培は既に始まっており、固有の尺度を使って建物を建て、巨木や盛り土による土木工事を行っていた。聖なる広場を中心に計画的に造られた都市があり、人口は500人を超えていたと考えられている。翡翠(ヒスイ)や黒曜石、食糧の交換ネットワ−クがあり、発達した航海術によって日本海� ��太平洋を往還していた。その行動域は大陸にまで及んでいた」(『縄文学への道』小山修三 日本放送出版協会〔NHKブックス 769〕1996年6月20日 3頁)。「司馬遼太郎」や「山本七平」がいう縄文人は闇の中にいたわけではなく、東アジアの最後進民族でもなかったのである。
◆◆◆ 基礎知識(32) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月16日(月)12時28分57秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(3)<
まず最初に「日本原人」は存在しなかったことである(「日本原人は実在したか」高山 博〔『争点 日本の歴史 1 原始編(旧石器〜縄文・弥生時代)』鈴木公雄 新人物往来社 1991年10月20日 29頁〕)。ジャワ原人、北京原人に平行する中期更新世人類(120万年前〜12.8万年前)の人類の人骨が日本で発見される可能性は地質学・地理学的にみてかなり低いとされ、「明石原人」も中期更新世人類に該当しないとされている(「高山 博」−前掲書 39頁)。
したがって、現在の日本人は外から日本列島にやって来たことになる。これが旧石器時代の人々である。旧石器時代と言っても日本でその痕跡が顕著なのは「岩宿遺跡」(群馬県みどり市笠懸町)を始めとする約3万年前〜1.2万年前の後期旧石器時代のものであるから、そのころには日本列島に人の痕跡が顕著となっていたと考えられる(「旧石器時代の集団はどこまで復元できるか」小野 昭−前掲書 63頁)。
★ 日本列島の旧石器時代
★ 岩宿遺跡
◆◆◆ 基礎知識(33) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月17日(火)15時43分11秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(4)<
旧石器時代は前期(250年前〜12万年前)、中期(30万前〜3万年前)、後期(3万前年〜1万年前)、に区分されるが、日本に人々が移住して来たのは、中期の末期〜後期であるとされている。旧石器時代は氷河期(300年前〜1万年前)だったが、海面が今より40m〜100くらい低く、シベリアと朝鮮半島が日本列島につながっており、日本海も内海となっていた。シベリアからはナウマンゾウ、オオツノジカ、ヤギュウなどの大型草食動物を求めて日本列島にやって来た。大型動物は当時の人々の最大の食糧源で、ナウマンゾウからは肉が1.5トン〜2トンは採れるとされ、大人2人と子供数人の家族ならば、焼肉パ−ティが1000回もでき る量で極めて効率が良い狩猟だったのである。彼らが捕殺したとされる約4万年前のナウマンゾウ、オオツノジカの骨が長野県信濃町の野尻湖湖底から発掘されている(「松本武彦」−前掲書 35頁)。彼らがシベリアからやって来た証としては、シベリアで発達した「細石刃」が北海道を中心に発見されていることにある(『日本人とは何か』安斉正人 柏書房 2010年6月15日 68頁、「マンモスハンタ−、シベリアからの旅立ち」浦林竜太・戸沢冬樹〔『NHKスペシャル 日本人はるかな旅』[以下『はるかな旅』という]第1巻 マンモスハンタ−、シベリアからの旅立ち 日本放送出版協会 2001年8月20日 58頁〕、(「堤 隆」〔『日本人の起源』産経新聞社 2009年5月30日 39頁〕)。彼らは木や骨の柄の先端に近いところに溝を掘り、薄い「細石刃」の小片をはめ込んで、動物などの狩りに使用していた。
そして、注目すべきはこの時代には既に「農耕」が行われていたらしいということである。これは「局部磨製石斧」というもので、土堀りに使われたとされている。ただ、この時代は氷河期で農耕は長くは続かなかったらしい。3万年前ころには「局部磨製石斧」は消えてしまっている(「松本武彦」−前掲書 38頁)。
★ 氷河期
◆◆◆ 基礎知識(34) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月17日(火)15時41分59秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(5)<
同じく氷河期には、今のタイからボルネオあたりは地続きであり(「小山修三」−前掲書 142頁、『全集 日本の歴史 第1巻 列島創世記』松本武彦 小学館2007年11月14日 43頁)、ここを「スンダランド」と呼び、ここにアフリカからインドを通って人々がやって来た。そして、ここから台湾、沖縄を経由して日本列島にやって来た(古モンゴロイド)。それは種子島にある約3万年前の「大津保畑遺跡」や鹿児島にある約2万4千年前の「耳取遺跡」がそれを物語っている。沖縄で発見された約1万8千年前の港川人骨が南から北へとやってきた証となっている(「巨大噴火に消えた黒潮の民」荻野太朗〔『はるかな旅』第2巻 44頁〕、「港川人骨� ��ら探る日本人の起源」馬場悠男〔同 106頁〕)。ただ、その後、約1万年間、沖縄では遺跡や人骨が発見されないことから、彼らは消滅してしまったと考えられている。「沖縄のような限られた面積の島では、狩猟採集だけで人口を維持、増加させるレベルでの適応は不可能」というのが、その理由である(「高宮広土」〔『日本人の起源』30頁〕)、また、「港川人は縄文人の遠い祖先である」(『骨が語る日本史(解説付新装版)』鈴木 尚 学生社 2009年5月30日 59頁)とされてきたが、「人骨の分析から縄文人とは異なり、その後にやって来た縄文的特徴を備えた人々によって駆逐された可能性が高い」(「馬場悠男」〔『日本人の起源』30頁〕)とされている。
現在の沖縄の人たちのル−ツは約6千八百年前に日本本土から南下した縄文系の人たちだったとされている。それは伊礼原遺跡から九州産の黒曜石や新潟の翡翠(ヒスイ)などが出土しており、琉球語は日本語と同系統の言語であることからも、本土からの人の流れを裏付けている(「長浜浩明」−前掲書 18頁)。なお、沖縄から港川人を祖先に持つ人々は南九州に渡った者もいるとされるが、彼らは「鬼界カルデラ」の大噴火(「貝文土器の時代」新東晃一〔『はるかな旅』第2巻 167頁� ��)により滅びてしまったとされる(「荻野太朗」−前掲書 93頁)。これを逃れて四国・中国などに渡った人々もいただろうが(「荻野太朗」−前掲書 97頁、「馬場悠男」−前掲書 12頁)、その痕跡は途絶えている。
アイヌについては末尾(26)で説明する。
★ スンダランド
★ 大津保畑遺跡
★ 耳取遺跡
★ 港川遺跡
★ モンゴロイド
◆◆◆ 基礎知識(35) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月18日(水)12時36分24秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(6)<
こうしたシベリアから渡ってきた人々(新モンゴロイド)が現在の日本人の祖先ということになる。理解を深めるために、前述したことをもう一度繰り返すが、シベリアには独特の「細石刃石器」が見られる(『日本人とは何か』安斉正人 柏書房 2010年6月15日 69頁)。シベリアに近い北海道の先住民たちは「小型剥片石器」を使っていたが、2万1500年を挟んだ1000年〜2000年の間に「細石刃石器」に取って代わられたとされる(「安斉正人」−前掲書 136頁)。そして、これが次第に関東地方にまで伝わっていったのである。このことから、こうした石器を持った人々がシベリアから日本に渡って来たという証になる。この「細石刃石器� �とは、木や骨の先端に溝を彫り、そこに鋭利な細石刃をはめ込んで主に槍としてナウマンゾウなどの大型草食動物を狩猟するときに使用されるものである。
ところで、縄文時代は土器が生まれたことを以って名づけられたもので、約1万5千年前から始まり、約3000年前(紀元前1000年)に終わるとされている。もちろん、研究者により若干時代区分が異なっている(「縄文時代はいつ始まったか」鈴木公雄〔『全集 日本の歴史 第1巻 列島創世記』78頁〕)。ただ、縄文時代の人々も旧石器時代の人たちにつながっている。こうした人々は沖縄にまで移住している。後述のとおり北海道の人々の遺伝子と沖縄の人々とのそれとが似通っていることは、このことを物語っている。
つまり、旧石器時代の人々と縄� �時代の人々は断絶してないのである。
★ 剥片石器
★ 細石刃石器
★ 縄文時代
◆ 新モンゴロイド
朝鮮半島などからやって来た人たちを「新モンゴロイド」と言い、弥生人の祖先とな
ったという考えもあるが、これ誤りで、シベリアから渡って来た人たちが「新モンゴロ
イド」であり、彼らが縄文人の祖先で、これが弥生人に進化したものである。『縄文人と似た集団が東アジアで見つからない理由は、東アジアの諸集団がいろいろなル−トで日
本に入ってきて縄文人となったが、その後、シベリアから寒冷地に適応した新モンゴロ
イド(北方系アジア人)と呼ばれる集団が東アジアに広がり、この地域にいた縄文人の
祖先は駆逐されて残らず、日本の縄文人だけが残った』(「中橋孝博」〔『ここまでわか
ってきた 日本人の起源』産経新聞 生命ビッグバン取材班 産経新� �出版 89
頁〕)。
◆◆◆ 基礎知識(36) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月20日(金)20時07分46秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(7)<
解決策が酸性であればpHは何ですか?
では、朝鮮半島や中国から私たちの祖先が<集団として>旧石器時代に渡って来たというのはどうだろうか。結論を先に言うと、これはない。もちろん、縄文時代、弥生時代にもない。
「男性はX染色体を1本、Y染色体を1本持つ。女性はX染色体を2本持つ。男児は母親からX染色体を1本、父親からY染色体を1本受け継ぐ。女児は母親と父親からそれぞれX染色体を1本ずつ受け継ぐ。例えば、5万年前に、ある男性に2人の男子ができたとする。2人のY染色体の元になったY染色体はもちろんもとの男性のものであり、世代を伝わるうちに何の変化も起こらなければ、2人のY染色体は5万年経っても全く同じものとして伝わってい� �はずである。(中略)ある変化が1人の男性のY染色体に生じても、その男性からY染色体を受け継ぐ男性は、全てその変化を受け継いでいる。従って、現存するY染色体の型を調べると、途中で起きた変化と、それぞれのY染色体の系統関係が確実にわかるのである。(中略)このY染色体の型は最も古いアフリカのA,B系統からR系統まで18系統に分類され、その下に153の亜形(ハプログル−プ)が定められた」(『Y染色体からみた日本人』中堀 豊 岩波書店〔岩波科学ライブラリ− 110〕2005年9月6日 27頁・49頁)。これを基に分析した結果、縄文系とされるC,D系統は、福岡の男性が47%であったのに対し、最小が神奈川の学生で40%となっている。弥生系とされるO(O1・O2)系統は福岡の男性が48%程度、神奈川の学生で57%程度となっている(「長浜浩明」−前掲書 255頁)。本来であれば、弥生系(渡来系)とされるO(O1・O2)系統は朝鮮半島に近い福岡に多く、そこから遠い神奈川に少ないはずであり、渡来系(朝鮮半島・中国からの人々)とは関係のない縄文系統であるC,D系統は、福岡に少なく、神奈川に多いはずである。ところが、分析は全くその逆となっている。すなわち、Y染色体の分析からは、弥生時代から奈良時代にかけ て日本にやって来たとされる渡来人の影響は、その人数であれ、人口増加であれ、大きくなかったからこそ、「中堀 豊」が渡来系としたY染色体のO(O1・O2)系頻度は、日本中どこでもほぼ均一と考えざるを得ない(「長浜浩明」−前掲書 254頁)。これは在の日本人は従来から土着していた縄文人の遺伝子を有していたと考えるしかない。結論としては、渡来人が日本に来なかったか、来たとしても少人数だったことを示している。
◆◆◆ 基礎知識(37) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月20日(金)12時21分36秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(8)<
Y染色体は男性の系統を示すものであるが、女性の系統を示すものとしてはミトコンドリアである(「中堀 豊」−前掲書 50頁、末尾も参照されたい)。これにも系統があって、そのなかにD(D4)系統は日本人(日本本土人)に多く(34%)、韓国人にはとても少ない(5%程度)。中国の北京人も同じである(1%程度)。スンダランドを形成していたタイ人には全く見られない。これも青森人はミトコンドリア系統の40%が有しているが、福岡人は34%となっている(「中堀 豊」−前掲書 144頁、「長浜浩明」−前掲書 257頁)。これも朝鮮半島に近い福岡に極端に少なく、そこから遠い青森に多いはずであるのが、そうなってない。つまり、朝鮮半島から大量に渡来人(弥生系)がやって来たのであれば、まず、朝鮮半島に近い福岡から混血が始まり、D(D4)系統の%が少なくなるはずである。しかし、そうではなく、全国の平均値と同じである。これも前述のY染色体の分析で示したものと同じく、現在の日本人は従来から土着していた縄文人の遺伝子を有していたと考えるしかない。
これも結論としては【渡来人が大挙して押し寄せたような状況は考えにくい。渡来してきた人の数となると、多く見積もっても数百年で数千人。1年になるとせいぜい数十人程度に過ぎない。2家族とか3� ��族とかごく少数の人びとが、長い間にぱらぱらとやってきたというのが実態ではないか・・・】(「戸沢冬樹」〔『はるかな旅』第5巻 38頁〕)というのが、真相であろう。
★ ミトコンドリア
◆◆◆ 基礎知識(38) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月20日(金)20時13分8秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(9)<
日本に渡来民がやって来た根拠として「耳垢(じこう)」が挙げる者もいる。これについては早くから(1938年)「足立文次郎」が知られている。「耳垢」には「乾燥耳垢」と「湿型耳垢」とがある。「湿型耳垢」の人はアポクリン腺と呼ばれる汗腺の活動が発達していて、それから分泌される耳垢は粘り、腋臭が強い。その逆が「乾燥耳垢(乾型耳垢)」である。足立の集めたデ−タ−によると、日本の本州・四国・九州の「湿型耳垢」の頻度は16.7%、朝鮮人の7.6%、ツング−スの10.3%、蒙古人の13.3%に比べると大きいが。琉球列島の38.0%、北海道のアイヌの50%に比べるとかなり小さい。「湿型耳垢」の比較的高い頻度は、� ��本列島の南北両端ばかりではなく、華南(29.4%)、タイ(35.5%)、台湾山地(71.4%)、フィリピン(55.0%)、ミクロネシア(53.4%)にも見られる。むしろ、「乾型耳垢」の多い地域がアジア大陸の東北部に限局されており、その傾向が北海道と南西諸島をのぞいた日本列島の中央部分に強い影響を及ぼした、というようにみることができそうである。【本州の中で「乾型」と「湿型」の割合がどのように文付しているかは、まだ地域差調査が本格的におこなわれていないため、よくわかってない】(『日本人の生いたち』山口 敏 みすず書房 1999年6月25日 69頁)。ところが、「池橋 宏」は肝心の【 】を省いて、<朝鮮半島経由で乾燥耳垢型をもつ集団が渡来して九州から本州へ移住したという説が支持される>としている(『稲作渡来民』池橋 宏 講談社〔講談社メチェ 411〕2008年4月10日 197頁)。「Y染色体」、「ミトコンドリア」などの分析でも示したように、日本各地での分析調査が行われていなければ、「乾燥耳垢(乾型耳垢)」がそういうル−トで日本にやって来て、どのように拡散したのかがわからず、「池橋 宏」は<朝鮮半島経由で乾燥耳垢型をもつ集団が渡来して九州から本州へ移住した>などと言っている『稲作渡来民』池橋 宏 講談社〔講談社メチェ 411〕2008年4月10日 197頁)。原典の【捏造】である。結局、「耳垢」の型からの渡来人の痕跡を証明することも確証がない。
その他、「耳たぶ」による分析がある。これに関するものに「分離型耳垂」(耳たぶの下縁がやや垂れ下がっている−「福耳」のこと)があるが、これも朝鮮人には低い比率でみられるという(32,62%または29.88%)。「分離型耳垂」の出現率を見ると、渡来人がやって来たとされる九州地方(44.10)よりも山口県(36.88%)、山陰地方(37.35%)、四国(41.71%)が低く、逆に近畿(京都−36.6%または53.2%、奈良−42.5%または49.2)の方が高い(「日本人の筋肉系と動脈系」欠田早苗〔『人類学講座 6−� ��本人 U−』雄山閣 1978年10月20日 56頁〕)。特に四国地方が低いのがオカシイ。結局、これも渡来人がやって来たという確証にはならない。また「二重まぶた」(「欠田早苗」−前掲書 44頁)、「指紋」、「手掌紋」からの分析もデ−タ−が不足しており(「山口 敏」−前掲書 72頁・63頁)、結果は同じである。
◆◆◆ 基礎知識(39) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月20日(金)12時19分50秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(10)<
朝鮮人などの渡来人が本当に来たのかを疑う証拠はもう一つある。母乳を通じて母子感染し、白血病などを引き起こすウイルス(成人T細胞白血病ウイルス〔以下ATLという〕)があり、日本人に多い。これを持っている人の分布は、沖縄−33.9%、九州−7.8%、中国−0.5%、四国−0.5%、近畿−1.2%、中部−0.3%、関東−0.7%、東北−1.0%、北海道(アイヌ45.2%、和人1.1%)となっているが、朝鮮−0.0%、中国−0.0%である(『私たちはどこから来たか』隅元浩彦 毎日新聞社〔「長浜浩明」−前掲書 111頁〕)。このことは日本人がどこからやって来たかを探るうえで重要な問題を提示している( 「山本七平」−前掲書 31頁)。
これも渡来人である中国人・朝鮮人が日本にやって来たなら、九州、中国地方の人々にATLを持っている人が少ないはずだ。しかし、そうはなってない。やはり、朝鮮人などの渡来人がやって来たとの証拠からはほど遠い結果となっている。特に朝鮮人などの渡来人が「四国」が大量にやって来たという記録がないのに、ここがATLの度合いが少ない。全く納得がいかない。
◆◆◆ 基礎知識(40) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月21日(土)12時55分54秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(11)<
「埴原和郎」が「渡来人が弥生時代の開始以後の1000年間(だいたい紀元前300年ころから紀元後700年ごろまでの間と考えられる)に100万人もやって来た。例えば、年あたりの人口増加率を0.2%とすると、1年に1500人ずつ、計150万人)」(『はるかな旅』第5巻 101頁〔「渡来人がもたらした弥生の人口爆発」中橋孝博〔同上〕122頁、で指摘〕などと言うのは<誇大>の何物でもない。「小林青樹」は膨大に推定していると指摘する−前掲書 同頁、「長浜浩明」は砂上の楼閣だとする−前掲書 141頁。考古学的に見てもそれだけ大勢の渡来人がやって来れば、北部九州ではその痕跡が住居跡や墳墓に見られるはずなの に、それがない(「中橋孝博」−前掲書 同頁)。
「縄文時代の人口は、早期21,100人、前期105,100人、中期261,300人、
後期160,300人、晩期75,800人、弥生時代594,900人、土師(奈良)時代5,399,800人、である」(「小山修三」−前掲書 109頁)。これによると、三内丸山遺跡の人口も24人、巻向遺跡(纒向遺跡)の人口も57人となるという(「長浜浩明」−前掲書 127頁)。ところが、本人の「小山修三」自身が前者は1000人も考えられると言っている(前掲書 160人)。巻向遺跡にしても卑弥呼の宮殿があったとされ、57人どころか数千人が暮らしていた可能性は大きい。これからしても、彼の人口推計は仮説でしかない。
◆◆◆ 基礎知識(41 ) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月21日(土)12時54分20秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(12)<
「中橋孝博」の前述(「渡来人がもたらした弥生の人口爆発」)の人口増加シュミレ−ションを要約すると、次のようになる(「長浜浩明」−前掲書 214頁)。
−300年 −250年 −200年 −150年 −100年 −50年 −0年
縄文系 75,724 79,604 83,684 87,972 92,480 97,219 102,099
弥生系 76 317 1,325 5,535 23,115 96,529 391,751
50年 100年 150年 200年
縄文系 107,331 112,832 118,614 124,692
弥生系 1,635,985 6,832,004 28,530,991 119,147,682
◆ 「中橋孝博」の設定した条件
1.弥生中期集団のなかに占める縄文系弥生人の比率 10〜20%
2.土着縄文集団のなかに占める初期渡来人の比率 0.1%〜10%
3.人口増加率 縄文系−0.1%〜0.3% 弥生系−0.5%〜3.0%
4.弥生開始期から前期末までの時間 200年〜300年
「中橋孝博」は、狩猟・採集民の縄文人の人口増加率は低く、稲作などの先進文化を持って渡来した弥生人の人口増加率が高いという前提で立論がなされ、渡来人が少数であっても、その人口は150年も経てば、縄文人を追い抜き、その後は爆発的に人口が増加していくというものである。これによると、200年には日本の人口は約1億2千万人という現在の人口 とほぼ同じものとなっていく。こんなことはないだろう。これでは過大と評価されている「小山修三」の人口推計よりも多くなってしまうのである。
◆◆◆ 基礎知識(42) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月22日(日)14時00分45秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(13)<
【弥生人は縄文人が進化して行った可能性があり、稲作を行うなかで食糧事情が急速に改善されていき、出産率も上昇し、平均寿命も延び、その結果、人口が増加していったと考えた方が正しい理解であろう。つまり、人口増加は渡来人が原因ではない】と。
このことを裏付けるものがある。『縄文時代中期までの西日本は、温暖化とともに暑苦しく生い茂った照葉樹林にはばまれ、人口の伸びも鈍く、大規模な定住も発達としなかった可能性が高い。東日本に比べて人口密度がぐっと低く、(中略)中期の遺跡数からうかがえる東日本と西日本の人口の比は、だいたい30対1くらいではなかったかといわれている』(「松本武彦」−前掲書 156頁)� ��これが中期から後期になると西日本の人口が増加し、だいたい5対1くらいの比率になる。これは栗などの豊かな食糧資源をもたらす落葉広葉樹林が慣例化により西日本に広がったことが要因だったと考えられている(「松本武彦」−前掲書 同頁)。東日本からの人びとの移住は東日本の特徴を持った土偶・石棒からも裏付けられる。西日本の人口増加は東日本からの移住によるが、先進的な東日本の人々が西日本に移住し、そこで稲作と出会い、弥生人に変革していったのではなかろうか。つまり、弥生人の基礎は朝鮮などからの渡来人ではないということである。
なお、渡来人の数については、「稲作」の項でもう一度検証する。
★ 縄文時代の区分
草創期(約1万5,000 - 1万2,000年前)、早期(約1万2,000 - 7,000年前)、前期(約
7,000 - 5,500年前)、中期(約5,500 - 4,500年前)、後期(約4,500 - 3,300年前)、晩
期(約3,300 - 2,800年前)となる。
◆◆◆ 基礎知識(43) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月23日(月)11時50分12秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(14)<
なぜオープンストーマと密接な
縄文系と渡来系(弥生系)との区別を握る鍵として、「歯」が挙げられる。「歯は、人骨のなかでも環境変動に左右されにくく遺伝的に安定した形質が抽出でき、しかも保存状態が不良であっても資料の採取が容易である」(「歯が語る日本人のル−ツ」松村博文『はるかな旅』第5巻 139頁)。こうしたことに基づいて、次のように分析結果を明らかにしている(同 144頁)。
渡来系 縄文系
弥生時代人 60% 40%
古墳時代人 72% 28%
鎌倉時代人 62% 38%
室町時代人 63% 37%
江� �時代人 75% 25%
現代関東時代人 75% 25%
現代琉球人 61% 39%
現代アイヌ人 32% 68%
これを見て、すぐにオカシイと気づくはずだ(「長浜浩明」−前掲書 106頁)。
1.古墳時代から鎌倉時代になると、縄文系が10%増え、渡来系が10%減るのはなぜ
か。どこから縄文系がやって来たのか。
2.鎌倉・室町時代に10%増加した縄文系が江戸時代になると12%も減少し、渡来系
が12%も増えるのはなぜか。この時代に数百万も渡来人が日本にやって来たのか。
3.アイヌと琉球人は縄文人の末裔なのに、琉球人には弥生系が61%もおり、弥生時代
の渡来系より多いのは なぜか。
4.アイヌ人のなかに、渡来系が32%もいるのはなぜか。
「松村博文」は、日本人の歯の形態を見ると、渡来人のものを受け継いでいると言いたいのだろうが、まるで説明になってない。「歯」の形態が<混血による変遷のみならず、生活環境による変化も大きいため、個々の人骨の系譜を追究するのは一筋縄ではいかないのが現状である>と考えるしかない。つまり、彼の分析は全く評価に値しないということである。
「戸沢冬彦」は「松村博文」の前記分析に関し、『縄文系と渡来系の混血は、その後、世代を重ねるごとにますます進んでいった。そうした混血の進み方の様子を「混血率」という具体的な数字で明らかにしたのが、人類学者で札幌医科大学講師の松村博文さんだ。混血率を切り口に日本人� �成立のプロセスを大胆かつ明快に示した松村さんの研究は画期的といっていい』(「そして"日本人"が生まれた」〔『はるかな旅』第5巻 83頁〕)。「戸沢冬彦」は一体何を見ていたんだろうね?
◆◆◆ 基礎知識(44) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月25日(水)12時35分22秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(15)<
今度は、人骨はどうだろうか。「土井が浜や三津永田遺跡での人骨の特徴として、縄文人と比較して、最も変化が大きいのは顔の縦方向の伸びで、眼窩や鼻孔も含めていずれも上下の伸長が著しい。縄文人はかなり彫りの深い顔立ちの持ち主であったが、弥生人の方は、全体的に凸凹の少ない、のっぺりとした偏平性の強い顔つきに一変している。また、身長は162〜164センチに達しており、当時の日本人としては例外的な高身長集団であった。さらに、弥生人は縄文人に比べて前腕やすねが相対的に短く、全体のバランスからいえば、高顔・高身長の弥生人の方がむしろ胴長、短足的な体型を持っていたともいえる」(「弥生人とはどんな人々か」中橋孝 博〔『争点 日本の歴史 1 原始編(旧石器〜縄文・弥生時代)』鈴木公雄 新人物往来社 1991年10月20日 229頁〕)。「「古浦遺跡」(島根県鹿島町)の古浦弥生人骨(43個体)頭蓋形質の特徴は、北部九州弥生人と変わらないとされるが、細かくみれば、たとえば前頭骨の平坦度についてみた場合、扁平性が強く、この特徴は西日本の縄文人と大差がないという。しかし、渡来系の形質の影響は明らかにあるので、すでに縄文時代段階に大陸との間に人的・遺伝的な交流があり、縄文人の形質に大陸系の遺伝的形質が浸透していったと考える必要があろう」(「縄文から弥生への転換」小林青樹〔『歴博フォ−ラム 弥生時代はどう変わるか』広瀬和雄 学生社 2007年3月20日 142頁〕)。
「頭蓋」の7項目について� �分析が「埴原和郎」により行われ、その結果、アイヌに一番のが、東北で次が北陸、九州と続く。関東はかなり離れていて、近畿は一番距離がある
(「山口 敏」−前掲書 54頁)。しかし、これはおかしいのではないか。アイヌは縄文人の祖先と言われ、沖縄人に近く、渡来人に一番遠いとされる。ところがこの分析ではむしろアイヌ人は九州の人に近く、関東・近畿には遠い。こんなはずはなかろう。
「中橋孝博」は「頭蓋」をあらゆる方面から分析し、特に主要8項目を選び出し、アイヌ、朝鮮人、南中国人の遠近(マハラノビス距離)を下記のとおり明らかにしている(「日本人の骨」〔『人類学講座 6−日本人 U−』143頁・169頁〕)。係数が小さいほど近接関係にある。
アイヌ 朝鮮人 南中国人
東 北 1.62 2.61 1.61
関 東 1.92 1.85 1.32
北 陸 1 .48 2.87 1.88
近 畿 2.23 1.60 1.66
中国・九州 2.15 1.96 1.00
琉 球 1.36 2.62 1.88
ここから何がわかるかというと、アイヌに一番近いのが琉球で、一番遠いのが近畿である。朝鮮人に一番近いのは近畿、次いで関東と続く、距離的に近い中国・九州は3番目である。遠いのは琉球と東北である。南中国人に一番近いのは中国・九州で続いて関東となる。遠いのは北陸と琉球である。結局、彼の分析からは何もわからないということである。中国・九州が距離的に近い朝鮮人に近いはずなのに、そうなってない。中国・九州が南中国人に近いのはわかるにしても関東が近いとは信じがたい。
★ マハラノビス� ��離
◆◆◆ 基礎知識(45) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月26日(木)11時41分20秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(16)<
また、山口地方の「土井が浜」、「中の浜」、「吉母浜」で大量の人骨が発見されたことから、これと北部九州での弥生人遺跡とされるものから出土した人骨をこの地域での縄文人の人骨とを比較して、「頭蓋骨」、「四肢骨」について「高顔」・「高身長」など一定の結論を導き出そうとしているが(「弥生人 1.形質」中橋孝博・永井昌文〔『弥生文化の研究 1−弥生人とその環境−』永井昌文・那須孝梯など 雄山閣出版 1997年5月1日 23頁〕、「古人骨の性判定法」中橋孝博〔『日本民族・文化の生成 1 (永井昌文教授退官記念論文集)』永井昌文教授退官記念論文集刊行会 六興出版 1988年3月31日 217頁〕)、ここ(「弥生人 1.形� �」)でも認めているように如何せん縄文人の出土が少なく(44頁・34頁)、縄文人の特徴をつかみ得てない。「池橋 宏」が言うように(前掲書−197頁)、信頼性が高いとは言えない。
「弥生時代の渡来人の拡散については、これまでに西日本以外から発見されている弥生時代の人骨のほとんどが保存状態が悪く、まともに頭蓋や顔面が残っている例はきわめて少ないため、渡来人が日本列島のどこまでひろがっていたかは定かではなかった。また頭骨をはじめとする骨格の形態は、混血による変遷のみならず、生活環境による変化も大きいため、個々の人骨の系譜を追究するのは一筋縄ではいかないのが現状である」(「松村博文」−前掲書 139頁)。
確かに、「日本人の顔」馬場悠男〔『はるかな旅』第5巻 194頁〕を見ても時代により顔の形態が変化しているのが一目瞭然である。「馬場悠男」もそのことを認めている(同� ��196頁)。【ここで明らかである渡来系だとされる弥生時代の顔がそのまま現代人にも残っているならば別であるが、これが古墳時代、鎌倉時代、江戸時代、現代と時代ごとに変化しているのを見れば、渡来系がほとんどやって来なかった鎌倉時代、江戸時代、現代に顔の変化があるわけがない。ということは弥生時代の顔の変化も渡来系の影響とは何ら関係がない】と考えられる。つまり、ことさら「弥生時代の顔」を「渡来系」だなどと強調する必要はなく、これを見ていると「顔の変化」に学問的な系統立った説明が果たして可能なのか大いに疑問を感じる。
◆◆◆ 基礎知識(46) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月26日(木)11時44分43秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(17)<
したがって、次のように結論付けるのは、前述のデ−タ−を一切無視した<単なる思い込み>であろう(『日本人の顔』埴原和郎 講談社 1999年1月15日 150頁)。
1.全体としては東日本と西日本との差が大きく、西日本では渡来系弥生人、東日本では
縄文系弥生人に近い人が多い。
2.全九州に限っていえば北部と南部の差が強く、北部の集団は渡来系、南部の集団は縄
文系の特徴を持つ。
3.北部九州から近畿地方にかけての地域ではとくに渡来系の特徴が濃厚に見られるが、
これより遠ざかるにつれて縄文系の特徴が優勢になる。
ところで、中世の鎌倉人の人骨が昭和28年(1953年)に、鎌倉市中心部(昔の「由比 ガ浜」)から発見された。これらは元弘3年(1333年)に「新田義貞」が鎌倉を攻めたときに犠牲となった者だという。これらの頭蓋はちょうどラグビ−ボ−ル(長頭)のような形であった。さらに一般に中世の人が長頭だということがわかった。どちらかというと縄文人に似ている(『日本人の骨とル−ツ』埴原和郎 角川書店〔角川文庫 12630〕 2006年9月25日 182頁)。さんざん、渡来人の弥生系の人の顔は土着の縄文人のそれとは違うということを力説していた本人(35頁)が困惑している。【おそらく食物や栄養を始めとする生活環境の影響と思われるが、その実体は不明である】(183頁)。何のことはない。<頭蓋など人骨は食物や栄養を始めとする生活環境の影響で変化する>ことを自ら認めざるを得な くなったのである。
ならば、弥生系と縄文系も同じはずである。【弥生人の人骨が縄文人のそれと異なるのは、食物や栄養を始めとする生活環境の影響で、縄文人が変化して行った可能性が大きく、渡来人が原因ではない】というのが正しい理解である。これからしても前述の「埴原和郎」(『争点 日本の歴史 T』229頁)の分析は信頼するに値しない。
◆◆◆ 基礎知識(47) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月27日(金)13時00分28秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(18)<
弥生時代は紀元前400年頃から紀元300年ころまで続いたというから、新羅の初代「赫居世居西干(紀元前51年〜紀元4年)から第14代「儒禮尼師今」(284年〜298年)までは、その時代に該当する。この間の歴史を記した『三国史記』新羅本紀・百済本紀によると、朝鮮半島から日本列島に朝鮮人がやって来たという記録が全くない。それに対し、新羅は度々「倭」(当時の朝鮮では「倭」を日本列島の人たちだという認識があった)に攻め立てられている。早いところでは初代王の8年(紀元前50年)にもある。講和も何度も行ったが、効果はなかった。
また、初代王の時代の重臣「瓠公(ほこう)」も倭人と記されている(新羅本紀� ��始祖「赫居世居西干」38年〔紀元前20年〕条)。第4代王「脱解尼師今」(57年〜80年)も「多婆那国」(「丹波」と目されている)からやって来た人だとされている(新羅本紀 第4代王「脱解尼師今」冒頭)。いちいち日本から海を越えて新羅に攻め入るのは大変だから、朝鮮半島内に「倭」の小国があったと考えている。
『三国史記』は高麗時代の1145年に編纂されたから、古い時代のことが確かでないきらいはあるが、それにしても大量の朝鮮人が日本列島にやって来たなら何かしらの伝承が残っているはずだ。「神功皇后」の三韓征伐については日本の各地に伝承が数多く残されている。朝鮮人が日本列島に侵攻したなどということは国の権威を増す重大な事項である。古代の歴史書は自国の強勢を記したも のという色彩が強い。こうした誇るべき伝承がないということは、朝鮮人が集団として日本列島にやって来なかったという傍証になろう。
★ 弥生時代
◆◆◆ 基礎知識(48) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月29日(日)14時48分1秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(19)<
細孔径は、水を抵抗するか
再び話を「稲作」に戻したい。イネが中国の長江下流地域で栽培され、やがて、長江中・下流地域で水稲として栽培され、これがそこから日本に伝えられたが、それを伝えたのは中国からの渡来人であった。しかし、その数はというと従来考えられていたほど大きくはなく、百万人もの渡来人が手に手に稲籾を携えて来たという想像を描くことができないでいる(「DNA分析からみた弥生時代の稲作」佐藤洋一郎〔『歴博フォ−ラム 弥生時代はどう変わるか−炭素14年代と新しい古代像を求めて−』学生社 2007年3月30日 65頁〕)。
イネの伝播ル−トであるが、「片岡宏二」は、朝鮮半島に稲作が発達していたことを前提に、紀元前195年ころに朝鮮 半島北部を治めていた「準王」が中国「燕」の将軍「衛満」に攻められて紀元前108年に滅び、「衛満」が北部朝鮮に「衛満朝鮮」を建国し、こうした混乱の中で、多くの混乱を生み出し、難民を生み出し、彼らが南部に進出し、そこにいた人々が玉突き式に押し出されて日本にその稲作技術を持って渡来したというのである(『弥生時代 渡来人から倭人社会へ』雄山閣 2006年9月10日 25頁)。こんなのは全くの<想像の産物>で何の根拠もないが、決定的な誤りは、当時、朝鮮での稲作は日本のものより遥かに遅れていたものであったということを看過していることである。つまり、日本では既に紀元前10世紀には稲作が行われていたのであり(「縄文から弥生へ・弥生前史」藤尾慎一郎〔『弥生時代の考古学』第2巻 弥生文 化誕生 雄山閣 2009年1月30日 10頁)、稲作技術を持った朝鮮人が日本に来るはずもなく、人の移動が行われたとしても、日本への水田稲作の伝来と何の関係もないということである。日本列島に朝鮮人がやって来た理由を見出すために、たまたま「衛満朝鮮」があった。そして、この国が滅亡した。これはちょうどいいや! これが日本列島に朝鮮人がやって来た理由だということにしようやとしたに過ぎない。加えて、「衛満朝鮮」の遺民が朝鮮半島南部に来たのなら、その文化がそこにも移動したはずだ。ところが、この国の文化・墓制が朝鮮半島南部から発見されない。朝鮮半島には「土壙墓」という墓制があるが、これは「衛満朝鮮」を滅ぼして、「漢」が楽浪郡など4郡の1つの「真番郡」のものとされ、それは朝鮮半島南 部にもあり、被葬者は中国人だとされている(「韓国古代史と考古学」李 基白〔『韓国古代史論』同 学生社 1976年9月10日 154頁〕)。その1つの「金海礼安里遺跡」からは鉄製武器と鉄製工具が出土しているから、鉄器時代と考えられている(「考古学の立場から見た韓国古代国家形成の問題」金元龍〔『日韓古代国家の起源』金 廷鶴 六興出版 1980年3月20日 13頁〕)。「衛満朝鮮」は鉄器と騎馬文化の人々であるとされ、滅亡後南下したとするが(「丁仲煥」−「シンポジム「日韓古代国家の起源」〔『日韓古代国家の起源』91頁〕、その痕跡は見い出されてない。
★ 土壙墓
◆◆◆ 基礎知識(49) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月29日(日)14時46分6秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(20)<
さらに、彼の立論が正しいならば、九州北部に大規模の渡来人の集落跡や土器があるはずである。しかし、それがない。そればかりか、朝鮮南部の「大成洞焼成遺跡」(慶尚南道金海市)や勒島遺跡などで発掘された弥生式土器が日本からの移住者かその子孫により製作されたものの可能性を示唆している(「韓国出土の弥生土器」片岡宏二〔『二十一世紀の考古学−桜井清彦先生古稀記念論文集』雄山閣出版 1993年2月20日 114頁〕、「片岡宏二」−前掲書 69頁)。こんなことは考えれば当たり前のことで、一方的に朝鮮から人が来て、逆に日本から人が行ってないなどと考える方がオカシイのである。それで、今度は紀元前10世紀から紀元前5世紀の 間に幾度となく見られた寒冷化により朝鮮半島から朝鮮人がやって来たというものである。しかし、これもそれ以前に朝鮮半島に稲作が発達してなければならない。これも同じく根拠がない。この他、紀元前11世紀末の縄文晩期後半から紀元前8世紀の弥生前期にかけての朝鮮半島における首長による地域共同体再編成により圧迫を受けた人々の新天地を求めての渡来だとする者(「安 在晧」〔「藤尾慎一郎」−前掲書 11頁〕)、同じ理由で根拠がない。
◆◆◆ 基礎知識(50) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月30日(月)12時09分29秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(21)<
それでは、朝鮮ではいつごろから稲作が始まったのであろうか。朝鮮半島では紀元前1000年頃)に、粟、モロコシ、オオムギなどの畑作物に混じってイネが見られる。水田稲作が行われていたのは紀元前1000年中葉であるが、その始まりは今のところ定かではない(「環東中国海をめぐる稲作の伝播」甲元真之〔『はるかな旅』第4巻 174頁〕)。
一方、日本ではイネが畑作(焼畑)として登場するのは、紀元前4000年頃である(「イネ、知られざる1万年の旅」浦林竜太〔『はるかな旅』第5巻 38頁〕)。
水田稲作はというと、佐賀県唐津市から昭和55年(1980年)に、日本最古の水田跡(「菜畑遺跡」)が発見された� �年代は2600年前、縄文時代晩期にあたる。それまでは、朝鮮半島から弥生時代(2300年〜1800年前)ころに朝鮮半島からの渡来民により始まるというのが、定説であったが、ここで発掘された生活道具がすべて縄文文化に由来するものであり、皿、浅鉢、甕、壺などの土器はみな典型的な「縄文土器」であった。土器の異なる渡来民がわざわざ土着の「縄文土器」を作るとは考えがたい(「浦林竜太」−前掲書 94頁〕)。なお、この地は「魏志倭人伝」の「末盧国」があった辺りである。2000年前には東北の青森にある「田舎館村」から「垂柳」・「高樋」という2つの遺跡から水田跡が発見された。こうして日本は600年の間に水田が隅々にまで広がって行ったと考えられる。この稲作の普及には渡来人の関与は なかったものと考えてよい(「弥生時代はいつ始まったか」泉 拓良〔『争点 日本の歴史 1』201頁〕)。また、「菜畑遺跡」より少し後の2400年前とされる「板付遺跡」(福岡市)からも水田跡と縄文時代晩期の土器などが出土した。このことから、【渡来人が大挙して押し寄せたような状況は考えにくい。渡来してきた人の数となると、多く見積もっても数百年で数千人。1年になるとせいぜい数十人程度に過ぎない。2家族とか3家族とかごく少数の人びとが、長い間にぱらぱらとやってきたというのが実態ではないか・・・】(戸沢冬樹〔『はるかな旅』第5巻 38頁〕)。
「弥生時代が始まる時でも千人以下でしょう(「西本豊弘」の発言)」(『シンポジウム「日本の考古学」2 縄文時代の考古学』小林達雄・藤田富士夫 学生社 1998年6月15日 290頁)。「朝鮮半島� ��ら数としてはたいして来てない」、「あまり多い数ではない」(「討論 弥生文化成立のプロセス」での「橋口達也」・「藤田憲司」の発言〔(『弥生文化の成立』金関 恕 角川書店〔角川選書 265〕2007年9月30日 230頁〕)。これが正しい認識である。
最近では、実年代を調べる方法が急速に進歩している。「炭素14年代測定法」(末尾のHPおよび『弥生時代の実年代』〔春成秀爾・今村峯雄 学生社 2004年6月5日〕参照)の進化により、遺跡の残留物からその実年代の測定が可能となった。その結果、例えば、前述の北部九州では灌漑式水田稲作が遅くとも紀元前945年〜915年頃には始まっており(「韓国・九州・四国の実年代」藤尾慎一郎〔『弥生時代の実年代』18頁〕)、それが遅くとも150年以内には土佐にまで及んでいたことが明確となっている。前述の「菜畑遺跡」の水田跡はさらに300年強遡ることになる。
★ 炭素14年代測定法
◆◆◆ 基礎知識(51) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 8月30日(月)12時08分29秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(22)<
ところで、前述の「甲元真之」の考えはオカシイ。朝鮮半島では稲作が畑作と水田とでほぼ近接して行われていることになる。中国が稲作の発祥の地であるが、イネが焼畑で栽培されたのが、約1万2千年前、水田耕作は6千年前であり、6千年もの差がある。これが同時に朝鮮に伝わったとは考えがたい。そう考えていたら、韓国での研究が穀物の検証および年代測定が行われてない資料を安易に使うという研究者としてあるまじき行為が堂々と行われていることが在米の韓国人研究者により指弾されている(「東北アジアの先史農耕と弥生農耕−朝鮮半島を中心として−」庄田慎矢〔『弥生時代の考古学 5 食糧の獲得と生産』設楽博己ほか 同成社 2009� �9月10日 41頁〕)。結局のところ、新石器時代(この場合は日本の縄文時代と考えてよい)におけるイネの存在についても確証が持てないとされている(「庄田慎矢」−前掲書 42頁)。加えて、水田跡にしても細別時期までわかるものはわずかしかないとして、その時期についても明らかにしてない(「庄田慎矢」−前掲書 44頁)。つまり、前述の「甲元真之」の見解も信頼性に欠けるということだろう。
★ 稲作の歴史
★ 稲作の朝鮮での歴史
◆◆◆ 基礎知識(52) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月 1日(水)12時53分57秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(23)<
九州の西北部に大陸由来の葬制とされる「支石墓」が点在しているが、これは従来大陸由来の葬制とされて来た。しかし、この下から発掘された人骨が在来型の西北九州弥生人であることがわかった「弥生人とはどんな人々か」中橋孝博〔『争点 日本の歴史 1』237頁〕)。何も「西北九州弥生人」と言わなくともよい。「縄文人」のことである。「葬制」は極めて伝統的なもので、そう簡単に取入れられるものではない。つまり、「支石墓」が縄文人の葬制だった可能性が高い。「大友遺跡」(佐賀県唐津市)・「新町遺跡」(福岡県志摩町)の「支石墓」でも埋葬者が渡来系弥生人ではなくそこに居住していた縄文人であることが判明している(「片岡宏� �」−前掲書 21頁)。
昭和28年(1953年)に山口県の響灘に面した「土井ヶ浜」から弥生時代前期のものと見られる約300体もの人骨が発掘された。すべて頭を南東側に海を見る向きで埋葬されていた。このことから渡来人だとされた。『土井ヶ浜の人びとは日本列島の縄文人とは別のグル−プであることがわかる。より近いのは中国人の同時代の人骨である。このことはつまり、縄文人が進化して弥生人になったというよりも、中国の同時代の人が日本列島にやって来て土井ヶ浜に住みついたと考える方が遥かに的を得ていることを物語っている。ここに進化説か渡来説かという長年の論争は、渡来説の勝利で決着したのである。その後、松下さん(土井ヶ浜ミュ−ジアム館長)は河南省の黄河中流域やチベットに境を� ��する中国奥地の青海省でも土井ヶ浜そっくりな人骨を確認している』(「戸沢冬樹」−前掲書 44頁)。ところが、これがとんでもない間違いであることがわかったのである。「土井ヶ浜遺跡からは北部九州で作られた弥生土器が出土しています。種子島以南の海でしか採れない貝で作った腕輪や硬玉製の勾玉、ガラス小玉などを身につけて埋葬された人がいます。これらから、土井ヶ浜の弥生人は北部九州からきたと考えられてます」(「藤田憲司」〔『よみがえる日本の古代』金関 恕〕[「長浜浩明」−前掲書 90頁])。肝心の「土井ヶ浜ミュ−ジアム」のHPも、中国江南地域や朝鮮半島では古人骨の出土量が少ないために、両地域での比較研究が進展しておらず、土井ヶ浜の人びとの原郷はまだ明らかにされてません」としている(「長浜浩明」−前掲書 91頁)。「土井ヶ浜では弥生人骨が300体以上見つかっていますが、そのなかでこれは縄文的人の子孫だろうといわれているのは、701号人骨1体だけで、それ以外はすべて渡来系ですね」(「シンポジウム 弥生のはじまりと東アジア」での「春成秀爾」の発言〔『歴博フォ−ラム 弥生時代はどう変わるか』春成秀爾ほか 学生社 2007年3月30日 180頁〕)。渡来系と決め付けた「春成秀爾」の考えは単なる思い込みであろう。それにしても 、一体、松下館長は何を見ていたのであろう。根底が崩れ去って「戸沢冬樹」もさぞ困惑しているであろう。【ここに進化説か渡来説かという長年の論争は、進化説の勝利で決着したのである】。さらに、土井ヶ浜の弥生人には縄文人に特有な「抜歯」が見られたことである。これについては、その事実を認めながら、上顎側切歯の抜歯や上顎歯にかたよった抜歯形式が大陸集団の抜歯風習の特徴が見られるとしている(「弥生人とはどんな人々か」中橋孝博〔『争点 日本の歴史 1 原始編(旧石器〜縄文・弥生時代)』235頁〕)。しかし、「中橋孝博」の反論も、自ら認めているように、<朝鮮半島から大陸沿岸の資料がまだ不足している現状での結論づけは困難である>(「中橋孝博」−前掲書 同頁)。さらに、彼が挙げる� ��抜歯パタ−ンの比較表」(234頁)を見ると、北部九州の弥生人とされる「抜歯」が縄文人のそれと同じであることから、抜歯の内容が異なるからといって、弥生人に<独自の抜歯形式>があったかどうか疑わしい。
さらに最近明らかになったのは、「中橋孝博」が主張していた<抜歯形式が大陸集団の抜歯風習の特徴が見られる>ことを自ら否定せざるを得ない結果が出てきたことである。北京・社会科学学院考古研究所の「韓 康信」との共同研究で古代中国の膨大な「抜歯」資料を日本の縄文人や「土井が浜人」の抜歯と比較すると中国のそれと「土井が浜人」のそれとでは関連性が疑わしい結果となったことである(『日本人の起源−古人骨からル−ツを探る−』講談社〔講談社メチェ 318〕2005年1月10日 178頁)。「土井が浜人」の抜歯から縄文人の抜歯形式を否定するのは難しいのである。この人の研究が<進化>しているとは極めて疑わしい。
このように、ことごとく稲作が渡来した朝鮮人により伝えられたという証拠が否定されている。
★ 土井ヶ浜遺跡
◆◆◆ 基礎知識(53) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月 2日(木)12時24分14秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(24)<
朝鮮では日本の縄文時代の後期・晩期にあたる紀元前1500年〜同300年を「無文土器時代」と呼び、読んで字のとおり表面に模様を持たない土器が製作された時代があり、前述の「支石墓」からの出土も朝鮮人がやって来たという証拠の一つに使われている。しかし、この「無文土器」は縄文土器に全く影響をもたらすことはなく、その「支石墓」からの出土自体の痕跡はまばらである(「縄文後・晩期土器と板付T式土器」小南裕一〔『弥生時代の考古学 2』102頁〕)。つまり、朝鮮から人びとが渡来しなかったのである。縄文土器は日本人の祖先である縄文人が製作した<世界最古>の土器である(「長浜浩明」−前掲書 76頁)。
そればかりではない。前述のとお� ��、朝鮮半島からの日本への渡来人の流入のみが語られ、日本から朝鮮半島への人の移住が語られることはなかった。ところが、近年、それが研究されるようになった。韓国では近時、日本に刺激を受けたか、盛んに遺跡の発掘調査が行われるようになった。その結果、朝鮮半島南部から縄文時代の「倭製土器」が「新岩里U遺跡」など5ヶ所から発見されている(「櫛目文土器との関係」田中聡一〔『弥生時代の考古学 T』162頁〕)。NHKスペシャルも「朝鮮半島南部、慶尚南道三千村の沖合いにある「勒島」で、3千から2千年前の、即ち日本の縄文晩期から弥生時代中期にわたる日本列島からやって来た人々の土器(縄文土器や弥生土器)が見つかっている」という事実を明らかにしている(「長浜浩明」−前掲書 48頁)。 こういう話が出ると必ず「日本からの交易のために持ち込まれた」という者がいるが、重い土器を海を越えて持ち込んだというより、その地で生産したと考える方が自然である。
決定的なのは、渡来したとされる者たちが集落にしても、墳墓形式、磨製石器にしても土器にしても彼らが構築あるいは製作したものか判別がつかないということである(「片岡宏二」−前掲書 42頁)。したがって、「渡来」というのは単なる想像上の産物とも思えるのである。
加えて、朝鮮半島からの渡来人が最初にやって来た九州北部で、渡来人と原住民の縄文人が<棲み分け>してなかったことである(「討論 弥生文化成立のプロセス」での「下条信行」・「藤田憲司」の発言〔(『弥生文化の成立』211頁〕)。この見解は、渡来人 が集団でやって来たことを前提としており、賛成できない。したがって、私の立場からは渡来人が集団でやって来なかったのであるから、<棲み分け>の議論そのものが否定される。また、<棲み分けがなかった>と言う者は、縄文人は争いを好まず平和的な人たちだったとする。しかし、縄文社会でも階級は存在し、平等ではなく(「松本武彦」−前掲書 117頁)、「新町遺跡」(福岡県志摩町)などでは、縄文人と思しき男性に「磨製石鏃」が打ち込まれた人骨が多数出土している。渡来人という異分子がやって来たなら当然に原住民との間で争いが起きる。現代の社会だって日本国内で日本人と朝鮮人・朝鮮人とが友好的な関係にあるとは言い難い。ましてや古代である。同じ集落に一緒に居住していただとか、争いがなかった� ��考える方がオカシイ。したがって、<棲み分けしてなかった>というのであれば、少なくとも同じ縄文人だけの集落だったのである。そもそも渡来人など来なかったのではあるまいか。
★ 無文土器時代
★ 勒島
★ 新町遺跡などでの抗争の痕跡
◆◆◆ 基礎知識(54) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月 3日(金)12時47分0秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(25)<
以上、最新の資料を提示して説明したように、<集団として>朝鮮半島から朝鮮人が、中国大陸から中国人がやって来たというのは、全くの<虚構>であった。にもかかわらず、冒頭で示したように、「2300年ほど前に、稲作と金属器の技術を持った新モンゴロイドが九州北部に上陸し、やがて、瀬戸内海をへて近畿にまで拡大した。この人々が渡来系弥生人である。アイヌ・琉球人は縄文人の直系子孫である。彼らは古モンゴロイドで、このうち西南縄文人は西南諸島か朝鮮半島から、北東縄文人は樺太から移動してきた」(「アイヌ・琉球人は縄文人の直系子孫か」馬場悠男〔『争点 日本の歴史 1』119頁〕)、「日本列島の歴史にもっとも大きな影響 を与えたと考えられているのが、約2800〜2700年前のこととされる、朝鮮半島南部からの水稲農耕の伝来だ。(中略)朝鮮半島南部から渡来して日本列島に住みついた人びとのものと考えられるムラが北部九州の玄界灘沿岸に点々と現れる。そのもっとも典型的な例とされるのが、菜畑遺跡である。支石墓は大陸から朝鮮半島南部に伝わったり、朝鮮半島南部で発達したもので、ここにいた人々が北部九州に持ち込んだものである。(中略)朝鮮半島の文化の流入が北部九州社会を弥生化させた」(「松本武彦」−前掲書 164頁・184頁を要約)。「大陸から伝えられた新たな農耕文化は、北部九州に定着する。これを伝えたのが、渡来系弥生人で、朝鮮半島に近い玄界灘沿岸で農耕を始めた人たちの子孫である。水田稲作� ��耕の技術を伝え、運んだのはやはり渡来人であったのであろう」(「片岡宏二」−前掲書 26頁・28頁・47頁を要約)。ところが、今度は「菜畑遺跡」の主体者が縄文人であるのを知るや、「菜畑遺跡の時代のすぐ後、(紀元前300年頃)日本列島には中国大陸や新たな渡来人が押し寄せてきたと考えられている」という者さえいる(「浦林竜太」〔『はるかな旅』98頁〕)。一体、中国大陸や朝鮮半島から人が押し寄せる歴史的事実があったのか。これを説明しないでこういうことを抜けぬけと言う者の神経が理解できない。
頑強に稲作が朝鮮半島南部から日本に伝来したと主張するのが「池橋 宏」である。彼はその伝来ル−トを、中国山東半島→朝鮮半島中西部→同西南部→九州北部とする(「池橋 宏」−前掲書 75頁)。「金関 恕」も同じような考えを採る(『弥生文化の成立』14頁)。寒冷地の中国華北に稲作が伝来したのは後世になってからで、このル−トは考えられない。これについては前述の拙稿で明らかにしたので、ここでは説明しない。
こうしたことを頑強に主張する者に共通なのが、前述した近時のイネのプラントオパ−ルや人の遺伝子に関する研究成果を全く紹介してないことである。このことは<総合的>検討を加えて判断するという視点が全く欠けていることである。これでは「考古学」というアナグラに籠って外界を見ようとしないと揶揄されても反論の余地はなかろう。きっと<思考停止>しているのであろう。
★ 稲のプラントオパ−ル
★ 稲の伝来
◆◆◆ 基礎知識(55) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月 3日(金)13時06分6秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(26)<
朝鮮半島から【縄文時代はもちろん弥生時代にしても渡来人はパラパラとせいぜい年に2〜3家族程度に過ぎなかった】(「長浜浩明」−前掲書 36頁)にせよ、日本にやって来た人たちは、日本にたわわに稲が実っているのを見て、さぞかし驚愕したであろう(『よみがえる 日本の古代』金関 恕・早川和子 小学館 2007年7月22日 50頁)。木の実などを食べてようやく永らえていた自分たちに比べて、<地上の楽園>がこの地にあったのかと。そして、日本列島にいた縄文人たちも種籾や黒曜石あるいは翡翠などを持って海を越えて朝鮮半島に交易に出かけたが、そのまま日本列島とのつながりを生かすために、その地に居住した者も多かったと思われる。彼らは日本から持ち込んだ種籾をその地の寒冷と戦いながら、やがて稲を栽培し、やがては水田耕作にまで発展させたと思われる。わが国は正に「瑞穂の国」だったのである。
朝鮮半島には多くの「倭人」たちが住み着き、小国を形成していったものと思われる。
『三国史記』に「新羅」が「倭国」の人たち、「倭人」に侵略されたという記事が頻繁に出てい� �が、これは何も海を渡って侵攻したばかりではなく、むしろ、朝鮮半島に定住し小国を形成していた「倭人」たちによるものと考えられる。その地は何も朝鮮半島南部の玄界灘沿いのみに止まらず、「独山」などの「新羅」の都「慶州」の北部約60キロのところにまで広がっていたのである。こうした「倭人」の人たちの小国があったればこそ、「神功皇后」の<三韓征伐>も可能だったと考える。
◆◆◆ 基礎知識(56) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月 4日(土)12時59分52秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(27)<
以上、述べてきたことから、まずわかることは、次のとおりと考えられる。
1.稲の遺伝子から
稲作を伝えるため、あるいはそれに伴って中国の江南地方などから日本列島に渡来人
がやって来たことはある。しかし、朝鮮半島からはない。もちろん、玄界灘という海を
越えて、近接する日本列島にやって来たものがいるにしても、集団としてやって来たと
いうことはないと考えてよい。したがって、【弥生人が朝鮮半島からやって来た】という
従来の定説は崩壊したと見てよい。
2.遺跡およびその出土品から
集落にしても土器にしても、朝鮮半島から渡来したという痕跡は薄く、これらから朝
鮮半島から渡来人� �<集団>としてやって来たとする根拠は薄い。
3.言語形体から
日本語と朝鮮語は弥生人が渡来されたとする弥生時代より遥か昔に分化しており、こ
こからの渡来人とのつながりはない。
4.人骨(頭蓋など)・歯から
日本列島で発見されている人骨から、従来の日本人である縄文人と渡来したとされる
弥生人との進化は、<頭蓋など人骨・歯が食物や栄養を始めとする生活環境の影響で変
化する>可能性を否定できず、渡来人がやって来たという証明にはならない。
5.耳垢、耳垂(耳たぶ)から
これも渡来人がやって来たという証明にはならない。
6.人口の増加から
渡来人がもたらした人口の増加とされてきたが、人口の増加数そのものが怪しく、し
かも人口の 増加に渡来人が寄与したという根拠が稀薄である。むしろ、縄文人が稲作を
行うなかで食糧事情が著しく改善し、出産率も増え、平均寿命も延びて、それが人口増
加をもたらしたというのが正しい理解と思われる。
7.Y染色体、ミトコンドリア、ATLなどの遺伝子
これから見ると、確かに中国・朝鮮の人々の影響が見られる。しかし、この対象とな
った遺伝子は現代の人々のものから採取したものを基礎としているため、渡来人がやっ
て来たことは是認されるにしても、それがいつの時代かを認定することは難しい。主と
して朝鮮半島からの渡来人がやって来たことは、『日本書紀』の記述からもうかがえ、否
定する者はいない。ただ、渡来人はいつの時代にもいたと思われ(「豊臣秀吉� �の朝鮮出
兵の時代にもいた)、その後の明治時代の末期からの日本統治時代にも大量の者が流入し
た。これらのことから、現在の日本人に朝鮮人の影響が少なからず残っているとも言え、
現在の日本人の遺伝子などをいくら分析しても、どの時代に朝鮮半島からの渡来人がや
って来たかについて確定することは難しい。中国人・台湾人にしても同じであろう。
◆◆◆ 基礎知識(57) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月 5日(日)12時12分5秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(28)<
最後に「アイヌ」について、簡単に述べたい。彼らが前述のとおり「縄文人の直系子孫で樺太から移動してきた」のは事実であろう。頭蓋の形態を見ても「北海道アイヌ」と縄文人はとても近接していると言われている(『ここまでわかってきた 日本人の起源』87頁)。また、「アイヌ」に分布するY染色体のD2系統の型とC1は縄文人の遺伝子型と考えられ、C3もその可能性があるとされる(「田島 敦」−『ここまでわかってきた 日本人の起源』105頁)。さらに、「アイヌ」が縄文人でない証拠として土器を作らないというものがあるが、「鳥居龍造」(人類学者・考古学者)は千島列島でアイヌが土器を作っているのを見ている(『アイヌは原日本人か』梅原猛・埴原和郎 小学館〔小学館ライブラリ− 44〕1993年4月20日 100頁)。アイヌには「家を焼く風習」があるとされる。これは、女性が亡くなり、あの世(神の国)に行っても、独りでは家を建てられず、住む家がない。死者の家の主人は神に祈った後、家に火を付けて焼き、住み慣れた家を死者に送るというものである。この習慣は縄文時代中期からあり、これが発展してアイヌにつながった可能性が否定できないという(「大島直行」北海道伊達市噴火湾研究 所長〔『ここまでわかってきた 日本人の起源』101頁〕)。言語的特徴を見ても、「縄文語=アイヌ言語が日本語の基礎をなしている。すなわち、日本語はアイヌ語と最も強い言語であり、その両者の根幹をなす言語層はアイヌ語系である縄文語にさかのぼる。(中略)沖縄の地名をみても本来のアイヌ語の音声を表している。すなわち、沖縄も北海道、東北も同じ言語圏にあったと見ることができ、日本列島全域でアイヌ語系言語が行われていたのである」(「日本列島の初期の言語史−縄文語の復元とその言語的特徴−」板橋義三〔『縄文時代の考古学 12』小杉 康など 同成社 2010年1月5日 146・149頁〕)。このことから、アイヌ人は独自の民族ではなく、日本人と同じ縄文人の系列にあると考えられる(『アイヌは原日本人か』131頁)。加えて、前述したATLの分布からも、沖縄とアイヌは同系統であると考えられる。アイヌを和人(日本人)と<別種の先住民族>などと言うのは、科学的根拠のない誤りである。しかし、どうして、こういう話が出て来たというと、和人(日本人)が渡来人から形成されたという前述したような考えがまかりと通ってきたことと、これを逆手に取ったわけもわからない人権主義者の台頭である。
◆◆◆ 基礎知識(58) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月 6日(月)12時14分31秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(29)<
「縄文時代=食料採集の段階→弥生時代=食糧生産の時代」などという歴史的構図などは、無意味である(「縄文・弥生幻想からの覚醒−先史社会研究における狩猟・採集・育成技術の経済構造化論−」山田昌久〔『食糧獲得社会の考古学』現代の考古学 第2巻 朝倉書店 2005年 99頁〕)。「少なくとも食糧生産の有無のみをもって単純に縄文/弥生を区分するような時代区分論は、もはや成立が困難である(「縄文文化と弥生文化」山田康宏〔『弥生時代の考古学 T 弥生文化の輪郭』設楽博巳 同成社 2009年12月20日 170頁〕)。あるいは「水田稲作の開始を以って弥生時代とする」という考え方は、そもそも従来の弥生時代の開始時期が500年も早まったことを意味して おり、縄文/弥生の区分自体が問われていることを忘れてはならない。
特に、弥生時代は縄文時代の発展したものであるという考えを採るならば、「弥生時代」という表現を削り、縄文時代を古墳時代の前まで引っ張り、後期・晩期の定義を変えていく必要があると思えるのだが、どうだろうか。将来、こうした考えが支配的になっていくと思う。このことは、日本の歴史を考えるときに大きな転換点になると考える。
◆◆◆ 基礎知識(59) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月 7日(火)13時38分34秒 ◆◆◆
>朝鮮人は来なかった(30)<
これまでの論考のまとめとしては、次のようなものになる。理由は既に説明してある。
1.稲は中国の長江中下流域から日本に伝わった。そして、日本を経由して朝鮮半島に
に伝えられた。
2.日本人は最初、スンダランド(インドネシア・タイなど)とシベリアからやって来た
が、スンダランドからフリィピン、台湾を経由したスンダランドからの人たちは消滅し、
現在の沖縄の人たちは日本列島の人たちと同じく、シベリアから来た人たちが南下した
ものである。朝鮮半島からは集団としては日本にやって来ることはなかった。
3.日本人の祖先は、シベリアから渡って来た人たちであって、これが縄文人と称された
ので� ��る。したがって、縄文人が祖先であると考えられる。なお、日本には原日本人は
いなかったか、いても消滅したと考えてよい。
4.アイヌ人もシベリアから渡って来た人たちであって、縄文人であり、現在の日本人と
さしたる変わりはない。したがって、日本人と系統を異にする先住民ではない。日本人
は「単一民族」であると言える。
5.弥生人は縄文人が進化したものであり、朝鮮半島からの朝鮮人、中国大陸からの中国
人ではない。
6.縄文人は決して暗黒の社会にいたのではなく、稲作を行うだけでなく、おしゃれで、
世界最古の土器を持ち、高い文化水準を有していた。
7.渡来人(朝鮮人・中国人)は極めて少数で、日本人の形態にさしたる影響を与えなか
った。
8.朝� ��半島にはむしろ日本列島からの移住者が多く、彼らはそこに小国を形成し、「任
那」などはその一つである。そして、朝鮮に日本列島の文化を伝授した。
〔この稿 完−次稿は「神功皇后」〕
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